最近、スマートホンを操作しながら歩いている人が多いですが、気になることありませんか?
人と人が行きかう場面では、かなり前から進路の交錯しそうな人を意識していて、左右によけるものです。無意識的かもしれませんが少しずれて、お互いがよける方向を確認しているものです、しかし、スマホをしながら歩く人はそれをしないので、どちらに避けるのか分からず少しイライラします。
みなさん、少しイラッとすることないですか?
今日は、その辺を糸口に話しを進めます。
スマホをしている人は、ゲームをしていたりメールを読んでいたり、本人的にはそれなりの理由がありスマホに注意を集中しているのですが、こちらとしては「危ないよ」という思いがわきます。
ということで、今日の話しはスマホの話しではなく、こうした状況を模型的なケースとして説明したいお話です。
人が腹を立てる時
人が腹を立てるのは、あの人もう少しこうしてくれたらとか、あんなことするとは信じられない、このどちらかであることが通常です。
スマホをしながら歩く人の状況に当てはめれば「歩いている時は前に注意しろよ」とか「歩いている時にスマホをするなんて・・」などとなるかもしれません。
私たちは個人的にある基準を持っていてそれに照らして、そんなことするなんて・・・とか、何でそうしてくれないの、などと腹を立てるものです。
個人の内なる基準で他人を判断していますので、苛立ちの原因が相手の行為なのか自分の判断基準なのか良く考えると相対的なのです。
もちろん社会に広まっている良い、悪い、の判断基準もありますが、それもかなり曖昧で、世界各国に目を向ければ国により常識は全然違いますし、身近な状況でも常識を主張する人は、個人的な基準を世間的な常識だとして、正当性を主張する道具にしているような場合も多いように見受けます。
人はそれぞれの計画をもって生まれている
ここで視点を変えます。
人は生まれる前にどのような人生を過ごし、何を学ぶかを計画して生まれてきます、ある意味、神との契約です。
私たちが行き違う人々にはみな神との契約があり、それにしたがって人生を体験し学んでいます。しかし、私たちが出会う人たちに、どのような契約があるのか全く知る由もありません。
その時は、周りに迷惑をかける体験をして、その後それを猛省して何かの意味あることをする計画かもしれません。とにかく人の人生は長い目で見た継続的な計画があり、その場の行いだけを、良い、悪い、と判断しても意味がないのです。
人は誰しも、長期的な計画があり、神との契約によって、その時々の課題に取り組んでいるのです。
とはいえ、人に迷惑をかける行為を常に見過ごせ、というのではありません。
人は人とのかかわりの中で学び、生きるのは間違いありませんから、けしてかかわりを避けろということではありません、その時々でどのような態度をとるか、その人の選択によります。
ただ単純に良い、悪いというのではなく、一歩引いた、もう少しふところの深い目で人を見ることが大切だと思います。
進歩した宇宙の人達がよく言う言葉に「許しが人を成長させる」というのがありますが、人にはそれぞれ人生の計画があることを知ると、許しの気持ちが芽生えやすいものです。
「引き寄せの法則」と言われるように、思いにより自分の人生に希望するものをもたらそうとする場合、このような他人に対する、許し、あるいは寛容や愛といった感覚は一見、無関係のように思えますが、実は、Beコンのテーマ、幸せな人生を創造するうえでとても大切なことなのです。